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讃題の例と解説 / 解説3

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

(浄土和讃、註釈版571頁)

現代語訳

数限りないすべての世界の念仏するものを見通され、摂め取って決してお捨てにならないので、阿弥陀と申しあげる。

(『三帖和讃(現代語版)』50頁)

全体の味わい

念仏の衆生を照らす光明のはたらき(摂取不捨の徳)が、阿弥陀如来の名前の由来であると詠われています。言いかえれば、阿弥陀如来が阿弥陀如来である由縁は、摂取不捨の徳にあると示して、そのはたらきを讃えられたご和讃です。

如来の光明のはたらきを讃嘆するとともに、私たちがその光のなかにあって、大きな安心を恵まれていることを喜ばせていただきましょう。

み教えのポイント

摂取不捨は信心の利益

  • ・摂取不捨の利益は、他力の信心を得るところに恵まれる利益である。これを『教行信証』には「心光常護の益」と言われて、他力の念仏者が現生に獲る十種の利益(現生十益)の一つとして示されている(註釈版251頁)。
  • ・如来の光明に照らされるとは、如来のお心(大慈悲心)のうちに摂め取られることである(註釈版659頁参照)。
  • ・『親鸞聖人御消息』には「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」(註釈版735頁)と示されている。今ここで確かな救いのはたらき(摂取不捨)に出遇っているからこそ、必ず浄土に生まれ仏となることに定まった身(正定聚の位)となるのである。

摂取の光明と衆生の煩悩

  • ・如来の光明に摂め取られたならば、私たちの側からその光を見ることができるようになるとか、ただちに煩悩から解放されると考えることは誤りである。
  • ・「正信念仏偈」には衆生の煩悩が雲霧に、如来の光明が日光にたとえて示されている。私たちには見ることができなくとも、如来の光明は私たちの煩悩に遮られることなく今ここに届いて私たちを摂め取ってくださっている。この他力信心のありさまが「雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」(註釈版204頁)と示されている。

法話作成のヒント

摂取不捨のはたらきを讃嘆する

  • ・阿弥陀如来の摂取の光明は、左訓に「ひとたびとりて永く捨てぬなり」(【語釈】「3.摂取」参照)とありますように、一度その光のなかに摂め取ったならば、決して捨てることのないはたらきです。私たちを浄土に生まれさせるその時まで、如来の心はつねに私たちへと向けられています。
  • ・同じく左訓には「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」(【語釈】「3.摂取」参照)とあります。如来の心は、真実の世界を求める者だけに向けられるのではありません。むしろ、真実から背を向け愛憎のなかに沈む凡夫をこそ救わずにはおれないというのが、如来の大慈悲心です。「七子のたとえ」と併せて味わうことができます。

光明に照らされた人生を語る

  • ・摂取の光明に照らされた人生は、大きな安心を恵まれた人生です。何が起こるか分からないこの人生のなかで、如来がいつも私たちを見守ってくださっていることのありがたさを味わいましょう。
  • ・如来の光明に照らされた人生は、ただ死んでむなしく終わる人生ではありません。たとえどのような境遇にあっても、私たちの人生には仏とならせていただくという尊い意味が与えられています。

語釈

  1. 十方
    東西南北の四方、北東・南東・南西・北西を加えた八方、そして下方、上方をあわせた方角のこと。
  2. 微塵
    一つには非常に小さい物質のこと。二つには細やかに砕かれたもののように数の多いことを意味する。今は数の多いことをあらわしている。高田専修寺蔵国宝本の左訓には「コマカナルチリ」(原典版解説・解説241頁)とある。
  3. 摂取
    如来の光明の中に摂め取られること。高田専修寺蔵国宝本の左訓には「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへとるなり。摂はをさめとる、取は迎へとる(オサメトル ヒトタヒトリテナカクステヌナリ セフハモノヽニクルヲオワエトルナリ セフハオサメトル シユハムカエトル)」(註釈版571頁脚註、原典版解説・校異241頁)と、その救いのはたらきが表されている。
  4. 阿弥陀
    「阿弥陀」とは、梵語アミターバ、アミターユスの二つを原語にもつ音写語で、「アミタ」は無量(ア=無、ミタ=量る)を表す。アミターバは無量光・アミターユスは無量寿と意訳される。

出拠とその解説

  • ・「念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば」の出拠は、『観経』に「(阿弥陀如来の)一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」(註釈版102頁)とあるご文です。
  • ・「阿弥陀となづけたてまつる」の出拠は、『阿弥陀経』に「かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす」(註釈版123~124頁)とあるご文です
  • ・上記の『観経』『阿弥陀経』のご文にもとづいて、善導大師は『往生礼讃』に「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし。ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる」(七祖註釈版662頁)と「阿弥陀」の名前の由来を示されました。