Ⅵ-1243算頭錄 親鸞聖人の一流において定めをきたまへる條、わが門徒のともがら、違犯なからしめむために、さだめをく事。 一 かねてさだめをくところの系圖につらなるのともがらは勿論、一流の法義を隨喜のひとびとも、聖人のさだめたまへるケ條のおもむきを、よくよく相守るべし。もしこの制法にそむきて、自義をかまへ、他の門徒をして、わが門人に歸入せしめむと企はかるともがら、おそらくは聖人の御こゝろにかなふべからず。一向に聖人のおしえを信じて念佛を行ずるのうへより、有縁のひとにもおしえて行ぜしむべし。このおしえにしたがふともがらは、すなはち聖人の門葉なれば、各々の門徒にくわへて、惣の衆議をへて、系圖にくわふべし。同一念佛の行者、男女の席をわかちて、みだりに混亂すべからず、夜ぶかく往來すべからず、名聞・利養のために人の世話あつかひをすべからず。もしなかだちをすることあらば、饒益有情の慈心をもてなすべし。しかるときは、佛法といひ、世間といひ、Ⅵ-1244利益あるべし。かへすがへすも、わが分限をしりて、行義を亂すべからず。人間は仁をもて心ろとすべし。かりそめにも、ものゝ命根をたつべからず。たとひ草木たりとも、天地の造物なれば、たやすくおもふべからず。いはんや生類においては、ともに生々世々に恩あることをわするべからず。ことに人間はその倫を亂るべからず、禮義をたゞしくすべし。かならず人のうらみを己にはかりて思ふべし。よくよく利害をしるべし。かりそめにも、へつらひいつはることあるべからず。佛法の掟てなれば、醉狂ひおよばざれ。後世をねがひ念佛を行ずるともがらは、一世の勤苦は須臾の間だなれば、無量壽國にいたりて樂報をうくることをおもひてつゝしむべしと、聖人おほせられたりと、相承したまへる知識の相傳なり。ゆめゆめ違犯の儀あるべからず、たゞ敎授の知識のことばを信ずべし。その敎授の知識の言といふは、すなはち釋迦文佛の金言なり。『大經』(卷下)には、「諸有衆生、聞其名號信心歡喜、乃至一念。至心回向。願生彼國、卽得往生、住不退轉。」W已上R『觀無量壽經』には、「若有衆生願生彼國者、發三種心卽便往生。何等爲三。一者至誠心、二者深心、三者回向發願心。具三心者必生彼國。」W已上R『阿彌陀經』、「聞說阿彌陀佛、執持名號、若一日、W乃至R七日、一心不亂」等Ⅵ-1245と說たまへり。三信・三心・一心と、三經の說相ことなるといへども、佛の密意はたゞ一つなり。かるがゆへに、三朝淨土の大師等、重々に問答料簡して、他力回向の三信なりとのたまひ、また「聞といふは、衆生、佛願の生起本末をきゝて疑心あることなし、これを聞といふ」(信卷)と釋したまへり。この佛願の生起本末をきゝうることは、宿縁によりてなり。『大經』(卷下)には、「若人无善本、不得聞此經。淸淨有戒者、乃獲聞正法」とゝきたまへり。しかれば、人道に生をうけ宿善深厚の人、他力回向の大信心をうるなり。こゝをもて聖人は、「たまたま信心を獲ば、遠く宿縁をよろこべ」(文類*聚鈔)とのたまへり。この信心を獲得するひとは、「現生に十種の利益をう」(信卷)とのたまふ。この利益をうるひと、念佛をとなへて、佛恩を報ずるこゝろなからむや。その報恩の行につきて、五種の正行すなはち報恩の行となる。その五種とは、讀誦・禮拜・觀察・稱名・讚歎供養の五種正行を怠慢あるべからず。ねてもさめてもとなへよろこぶべきは、第四の稱名正行なり。これ賢愚利鈍の機にかゝはらぬなり。觀察と讀誦とは、機の堪否ある歟。ことに讀誦においては、淨土の三部妙典をはじめとし、論釋の偈頌・妙句等ありて、讀誦に堪ざる人もおほし。こゝをもて、聖人はその稱へやすからしめⅥ-1246むために、和讚をつくり、諷誦をなさしめたまへり。六時のつとめをはぶきて三時となし、光明寺和尙の『禮讚』にかへて、「正信念佛偈」等を諷誦せしめたまへり。また念佛のものうからむときは、和讚を引聲して、五首また七首をも諷誦せしめたまへりと、先師明光よりうけたまはりき。すでにきく、慈覺大師の引聲は、極樂世界の七寶の池の波の響きをうつせりとも、迦陵頻伽の妙音をなし、六調、十二律にもおのづから恊へりともいへり。しかれば、宮・商・角・徵・羽の五音、七聲、六調、十二律に恊ひて、稱へやすきやうに和讚をつくりたまへるを、殊勝なりと聲明の達者もほめられけり。かやうなることをきくにつけても、聖人の御恩德いよいよふかくこそ思ひはべりぬ。これによりて、わが信知するところの師資相承の儀にまかせて、予が門徒へしめすところなり。相傳もなき聖敎をみだりにとりあつかひ、聖人の御流儀にそむきたる自義をたてゝ道場をかまへることを、向後かたく停止すべし。專修念佛の行者は、たとひ在家止住の身なりといふとも、眞の佛弟子なりといふことをつねにわするべからずとなり。 一 いにしへ、大師聖人面授直傳の御弟子おほかりける中に、親鸞聖人は、製作を書寫し、眞影の圖畫をゆるされたまへり。恩顧他にことなりたまへることは、Ⅵ-1247專念正業の德なり。ことに大師聖人配流のとき、親鸞聖人と眞影をたがひに贈りたまへり。いま、大師聖人の眞影を拜したてまつれば、御在世にも偏執の邪徒、念佛弘通の繁榮を妬みて、罪なくして配所におもむきたまへること、無慚の至りなり。また親鸞聖人は、配所に五年の居緖をへたまひてのち、歸洛ましまして、破邪顯正のしるしに、一宇を建立して、興正寺となづけたまへり。すなはち无量壽佛の立像W慈覺大師の御作也、親鸞聖人六角堂感得Rを本尊とし、傍らに聖人御自作の眞像ををきたまへり。これすなはち、本尊へ給仕のため、かつは門徒へ敎化の御こゝろなり。この兩聖人の眞影を拜したてまつりて、御在世のむかしを思ひ、御滅後の今日を思ふに、偏執の邪徒はことなることなし。實に正法興隆の場には邪風戰くの道理なり。すでに釋迦文佛の御時には調達あり、上宮太子の御時には守屋の連ありて、正法を妨げたり。今時の鎌倉の邪徒は、眞假の門戸をしらざるがゆへなり。あはれむべし、あはれむべし。來生の果報をおそれざるがゆへなり。おそるべし、おそるべし。 一 聖人の御正忌七日七夜の勤行は、「三部妙典」の諷誦、論釋の偈頌・妙句等、引聲・墨譜は聲明の達者につたへをうくべし。みだりに引聲することなかれ。報Ⅵ-1248恩のつとめにもかなはず、かつは他のあざけりもはづべし。諷誦の句讀をもあきらめ、聲明・音律に恊ふときは、影嚮の冥衆も感應あるべし。しかあれば、報恩のつとめともなるべし。たとひ繒蓋・幢幡、燃燈・燒香、供華・供物に、善をつくし美をなすとも、「眞成報恩」(禮讚意)の釋意にたがひて、聖人の御こゝろにかなひがたかるべし。さあれば、同一念佛の行者、道場にうちよりて、佛德を歌歎し、讀誦正行の本意をあきらめ、一味和合の信心を沙汰して、禮念口稱の正行に達せば、檀林寶座の上より、破顏微笑して照覽をなしたまふべし。もし名利に貪著せば、自證往生の本懷を達せざるのみならず、報恩謝德の實義をうしなひ、剩へ他のあざけりをまねかむ。よくよくこゝろうべし。されば他力回向の信心を獲得して、同一に念佛勤行せば、自證往生の望を達し、佛恩報謝の實義にかなひ、聖人の御意にもあひかなひ、見聞隨喜のともがらもあるべし。いはんや、影嚮の冥衆は、さだめて渴仰のかふべをたれ、歡喜踊躍の袂をひるがへして、感淚にむせびたまふべし。護法の善神は、法威を萬邦に奮ひ、佛日增暉して、幽冥をてらさむ。あふぎねがはくは、冥衆護持して、一味和合の門徒を安養界の妙果をさとらしめたまへ。七日の勤行は、一向報恩の思ひに住す。伏てこふ、祖師聖靈、わが善願Ⅵ-1249を照鑑して哀憐をたれたまへ。謹んでまふす、十方の三寶、わが弘通を扶助して、末世の道俗をして、この願海に引入して同一念佛の行者となさしめたまへ。 元德元年己巳十一月廿八日 釋 空性W三十六歲R謹書