Ⅵ-1209高田上人代々聞書 一 親鸞上人、御俗姓は藤原氏、御家は公家日野殿御子也。日野殿は代々公方の御しゆうとに成り玉ふ御家也。上人御年滿九十、弘長二W壬戌R年十一月廿八日、三條富小路善法坊僧都の御所にて御往生也。又は五條西の洞院にて御往生と云へる說もあり。御葬送は鳥邊野なり。永祿四W辛酉R年、當三百年忌。一身田於無量壽寺、一七日大法事を執行し給也。又先に所言善法坊僧都は開山の小父にて在すなり。鸞上人の御事、委く傳記に見へたり[云云]。 Ⅵ-1210一 眞佛上人、御往生は三月八日也。此上人は王孫にて在す。謂く、眞佛上人は柏原の天皇の末孫、鎭守府の將軍・大丞、國香の後胤、下野の國司、大内の息男也。大内の息男に在四人。謂く、大内の庄を持ち給ふを云大内殿、をぐりを持ち給をばをぐり殿と云、まかべを持ち給をば眞壁殿と云ふ。殘て二ケ所は絶へて、今は眞壁殿・をぐり殿ばかりなり。海老澤・まかべ、大學と云ふあり。是廿四輩の内なり。 然れば、此の上人は四人の内、大内殿息男なり。俗名をば、しいのをの彌三郎殿と奉申也。親鸞上人關東へ御下向の時、板敷山を御通の時、此の彌三郎始として二十四人の惡黨、鸞上人を山立して、上人へ矢を射かくる所に、上人の御威光自然と不思議在すに依て、弓もひかれず、矢もはなされず、Ⅵ-1211太刀・刀もあつかわれず、五體すくみてはたらかず。其の時、彌三郎殿をはじめたてまつり廿四人、ともに當座にもとゞり切り、上人の御弟子と成り給也。 此上人は鸞上人の御存生の内に御往生なり。正嘉二W戊午R年五十歲にして三月八日に御遷化なり。鸞上人より四年先立ち給也。依之、鸞上人より顯智上人へ住持職を讓り給也。亦眞佛の三百年忌、當弘治三巳年。一身田於無量壽寺有法事。 又有る人の云、此上人は御年五十より内の御往生なりと云へり。又廿四人の衆、二十四所に面々に寺を開き給故に、關東二十四輩是也。又元龜三申年七月廿三日に、關東御本寺の性善の物語には、Ⅵ-1212鸞上人は板敷山を御越在て、ひふきの橋のつめにて、彌三郎殿大將として矢を射かくると傳ふるなり。又惠珍は板敷山と物語なり[云云]。今の繪傳板敷山なり、可知。 一 顯智上人、鸞上人より直に御傳法也。御往生は七月四日なり。此上人の御生國存じたる者の無之。故に化生の人にて在すかと申し傳ふるなり。然るに有る時、上方へ御上りの時、越後の國を御通の時、里人に向て玉く、いとうとろどろはらちりと云在所はいづくぞと問ひ給へば、あれに見へ候里を申候と。其の時、上人其方を餘所ながら見をくらせ玉ひて、其の儘なみだぐみて在したると云ふ事ありと。さては御生國は越後の國にて在すかと申しならはすとなり。但し是は不定說也。唯化生の人にて在すと申來るなり。大學匠にて在す。 Ⅵ-1213或る時、出家も刀を持ても不苦ものかと思召、刀を所望に思し召す處、有る時、白はりきたる老人の唯一人太刀を持來て上人□申樣、太刀を御所望に思召御内證の由にて候。是は善き太刀にて候、御めし候へとて、上人へ渡し申し、其の儘歸へる。上人の御内證に、此の老人は太刀の代物の定めをせずして歸る。不審に思食し、老人の跡を見送せ玉へば、日光山を指して歸へり、二度此の太刀を取りに不來。さては此の太刀をば日光權現より給ると喜び給ひ、其れより御祕藏ありけり。太刀の銘は菊一文字なり。此の太刀に不思議あり。寺家に違目有るならば、太刀の齒まがりて白くなる。後に亦もとのごとくなをる。太刀の寸は二尺Ⅵ-1214七寸なり。一段見事なりといへり。 一 專空上人、御往生は十二月十八日なり。此の上人は高田の地頭大内殿御子にて在すを、顯智の御弟子に取り給。高田の寺内をば寺より制誡有り、寺家より外をば地頭からの成敗なり。地頭も寺の近處に在す。其の後、此地頭絶へて、今はうつの宮殿高田を存知也。御本寺は關東下野國芳賀の郡高田と云ふところに專修寺を建立し給也。大内の庄は十二郷の處、大郷なりW此上人は平氏也 R。有る人の云、Ⅵ-1215大内殿は此の處を持ち給ふに依て、大内の庄と云ふとなり。筑紫の大内殿は、下野國の大内殿にてあるなり。 一 定專上人、氏同じ。御往生は七月十一日。此上人は專空の眞の御弟子、次男にて在す。然れども、佛法の義能くして器用にも在す故に、雖爲次男專空より住持の讓り給ふ也。住持職を請取り給ひて十年目に御往生也。 一 空佛上人、同氏。御往生は四月十四日なり。是も專空の眞の御弟子也。殊に嫡男にて在す也。然れども、依不爲法器、舍弟定專へ專空より住持を讓り給ひて、空佛へは住持を無御渡。然れども、定專に御子依不在、他門へはいかゞとⅥ-1216思し召□、定專の御往生の砌、御舍兄空佛へ住持を讓り給也。是も十年目に御往生也。 一 順證上人、同氏。御往生は六月十六日。此の上人は空佛の御子にて不在。專空の御舍兄か又は御舍弟か、證西と申す人在す。其の御子息を空佛御弟子に取り給ひて、住持して讓り給ひて、二歲より住持して持ち給ひて、六十の御年まで住持し給ふ。專空の御爲には甥にて在□、定專と空佛との御爲には從弟にて在す也。關東の性善語て云、此上人は、みとべ川にて水をあび給へば、龍宮へ取ると申すなり。無類の美僧にて在す故にといへり。 一 定順上人、同氏。御往生は正月廿八日也。是は順證の眞の御弟子にて在す。無極の道心者にて在す。常にをほせけるは、早く隱居し、後夜起して念佛申度きとのみのたまふ。誠に一向專修の上Ⅵ-1217人にて在す也。依其御心、早く在御隱居、後夜の念佛無懈退勤め給ふとなり。或時、佛前に而念佛申し給ふ節、參錢の箱の上に雀群集して米をひろひくうなり。上人、御身を動し給はゞ此雀驚き立ることを思し召し、良や久く御身□動し不給、雀立て後、御身をはたらきたまふと[云云]。是人皆かりそめの事の樣に可思。行住座臥、大慈悲の御心底察して可知之W云云R。又此の上人、早く隱居して後夜の念佛を勤め度き□の御言は、さては高田御住持は後夜の念佛を勤め不給御事かと、皆人申されたるとなり。是但し此上人、後夜の念佛を勤め給ふには有子細W云云R。 又唯今御往生あらん前に、越後と申す中居の者□Ⅵ-1218めされてをほ□けるは、枕箱に料足廿文あり、取り出して今日のしよくわに出すべしと□たまひて、ほどなくして御往生あり。昔は每月廿八日にしよくわをつなぎ、開山御恩を報謝したまふと[云云]。是志のほど、かりそめの義にあらずと。[已上] 一 定顯上人、同氏。御往生は五月廿四日なり。定順眞の御弟子也。 一 眞惠上人、同氏。一身田於無量壽寺、御年七十九歲に而十月廿二日に御往生也。是定顯の眞の御弟子也。定順の當代まで御存生にてまします。是定順・定顯、三代ならびて在すと也。此の上人、御上洛により、伊勢・越前・越後・上方の御流義繁昌す。御上洛なき以前は、上方の御流義の佛法破滅して、何宗とも不定體にて有りと[云云]。誠に此の上人は御流義の中興也。又關東本寺の衰微Ⅵ-1219は、此上人御上洛の故也。 Ⅵ-1220又此上人の御代まで、每月廿八日の御佛事をば宜しく執行し給ふとなり。又伊勢の國峯の領中、原の御寺を退き玉ひて、在坂本□後までも宜しく執行し玉ふ。故に伊勢の國の御門下より、每月廿八日□御佛事錢を一貫七八百文づゝほど進上申候也。然れば、御寺よりの御まかなひと國よりの進上と合せて行ひ給間、一段御奔走と[云云]。修理の亮方始として、御殿原衆、其の外上戸衆には、桶のみに仕り候へとの御意にて、面々の前に桶を一つづゝ引せらる。此の桶は酒一升づゝ入ると、是坂本にての事也。 眞惠上人の御往生は永祿十二W己巳R年、當五十八年也と[云云]。 一 天文十七申の年九月十二日、一身田於無量壽寺尊乘坊惠珍の物語に云、代々上人の御事、Ⅵ-1221同く高田・本願寺兩家の事、眞惠法印の常々御雜談にのたまはく、親鸞上人、常陸の國いなだに十年在す。又下妻の小嶋にも十年在にして御上洛と[云云]。又下妻、下妻殿と云人あり。上人御上洛の御時、下妻殿先祖に丹後と云ふ者ありけるを召し連れられ、御聖敎を頸にかけさせたまひて御上洛あり。今に本願寺の下妻と云、其の時の丹後子孫也。 又都東山大谷に、知恩院の下に靑蓮院令戒律師の敷地のありける□、顯智上人百餘貫に買ひ取り給ひて、淸水のそば鳥邊野に鸞上人の御骨のありけるをほり出し給ひ、大谷にうつして其の上に寺を立て給ひて、鸞上人の御娘に覺眞と申す比丘尼のⅥ-1222都に在すを喚び出しのたまはく、我は關東本寺へ下り候、やがて罷上り候べし。其の間、此の寺を預け申候。是師匠の御骨をこめをき候へば、香華を能く取りて念佛申し給へとて、顯智は關東へ御下向あり。其の御留守中に有る公家の法師の覺眞の方へ近付、かよひ玉ひて男子を一人まふけ玉ふ。是を覺如と名付く。此の覺如は開山の御孫にて在す。覺如の代より高田の御家二つに分る。 顯智の御建立在す大谷の御寺、本願寺蓮如の代までは有大谷。其の比、都に【山階の】やましなの【奥州】あふしゆう亂と云ひて都くるう。其の時、蓮如の大谷の寺を山階へ引きて山階に立て玉ふ。此の蓮如の代よりして、本願寺大きに繁昌す。 亦眞惠上人、蓮如と互に無隔意。其の時、御兩家御定により、高田の門徒を本願寺へ不可取、Ⅵ-1223又本願寺の門徒高田へも不可取、互に御約束あり。其の後、三河に和田・野寺と云て兩寺久き高田□有末寺。和田寺に久く住持絶へて無之。眞惠の得御意、本願寺のそしに和田寺を持せ給ふ。本願寺のゆかりなるにより、終に本願寺へ成りて、今に如此。又野寺をも蓮如の代に本願寺へ取り候。其の時、法印のたまはく、さては定し事を違變なりとて、其れより法印と蓮如と御中違ひ玉ふ。又其の後、加賀の國をも蓮如の取り玉ふ。又大谷蓮如居住の時迄は、眞惠法印と蓮如と依無隔意、眞惠の御在京の時は大谷に在り。 其の比迄は、本願寺一向不肖の體也。其時、大谷にて御本尊の佛餉をば衆僧請取り食す。又開山のⅥ-1224佛餉をば下妻丹後食す。此の二つの佛餉を納所の方へ請取りさばきてありとなり。其比、本願寺不肖なるによりて、大谷より每日京へ出て米七升づゝ買ひ取り、朝夕の食を調へ申と、下妻、眞惠へ語り申となり。又納所をもよろづ丹後まかなひ候と申す。丹後宿所、大谷の門前にあり。 又蓮如に子息多くあり。先腹に四、五人、皆男子なり。當腹にも多くあり。嫡子中納言は大津の寺を持られ候。是は先腹なり。次男は加賀の國のはさ谷を持つ。三男は同く若松を持たるゝなり。此四人は一腹なり。中納言殿兒にての時、美貌にして眞惠御寵愛にて、眞惠在坂本の御時は、此の兒を呼び玉ひて御そばにをかせ玉ふ。此の兒、眞惠へ時々申さるゝは、眞惠の御異見を以て我等に家督をつがせて玉はり候へと申さるゝとなり。中納Ⅵ-1225言大酒なり。又山階をば當腹につがせらるゝ、名をば大納言□云ふ。又河内の出口と云ふ處にも子一人あり。又津國にも寺を開き、子一人をかれそろ。七處に子をしつけられ候。 又、三河の明眼寺の辰巳に當り、池をへだてゝ、さゝきと云所に上宮寺と云寺あり。昔は明眼寺の下なり。是も蓮如より本願寺へ成る。蓮如、山階より上宮寺へかよひ玉ふとなり。大津の寺は山階より後に立つ。山階も大津も、蓮如の建立也。本願寺の始まり、覺眞、覺如、存覺、從覺、是より次第せり。蓮如中興也と[云云]。 一 應眞上人、同氏。御往生は天文六年五月廿五日。御年四十八にして、都一條柳原の御寺にて終Ⅵ-1226り玉ふ。御葬送は千本也。此の上人は眞惠上人の眞の御弟子也。專空上人より當代まで、血脈のつゞく事八代也。私云、此上人の三十三回忌、永祿十二W己巳R年に當る。始五月、可有法事處に、當國南北のとりあひさわがしきに依て、閏五月十八日よ□同廿五日迄の御法事也。 一 僧正堯惠上人、藤原氏にて在す。御俗姓はⅥ-1227飛鳥井雅綱御子息、本腹□男にて在す。御年九歲の時、應眞上人の御養子也。此の上人、永祿三W庚申Rの年、僧正に任ぜらるゝなり。御女中は、勢州安濃の郡乙部兵庫の頭藤政の御娘、次女にて在す。十六歲にて御婚禮在て、永祿五W壬戌R六月十一日辰の剋に御往生。御年三十一歲也。御法名、常照院殿慈芳□申也。御父兵庫の頭殿は、源三位賴政の子孫にて在す也。 Ⅵ-1228一 僧正堯眞上人は、堯惠眞の御弟子也。御女中は美濃の國伐山殿御息女にて在す。尾州信長殿御姉の御子也。天正六W戊寅R歲二月、一身田へ御入り在り。堯眞僧正、僧正成の御年、天正八W庚辰R年六月四日に一身田を被成御立、同五日に京都へ□上著、明る六日に則在御參内、得僧正號御下向也。諸宗の參内に相替□一段御滿悅也。 Ⅵ-1234如前云、代々上人の御事、高田・本願寺兩家の事、天文十七申年九月十二日と、同天文二十二午の年八月晦日と、此の兩年、尊乘坊惠珍の一身田於無量壽寺佛殿物語ありけるを書き留め置き、永祿五W壬戌R年五月十日に合して書記之畢。 惠敎 蓮藏坊 天正十五W丁亥R年三月#日 Ⅵ-1235源忠書寫之 又尼覺眞の預狀等、代々綸旨御朱印の末に在之、往看。 淨蓮寺隱居了知院 傳極叟