Ⅵ-1197十六問答記 (一) 尋云、十劫正覺の謂をしるを往生の體と云こと如何。答。自元淨土門のこゝろは、一文不知の愚鈍の下機を本として、稱名の一行を本願としたまふあひだ、たとひ十劫のいわれをしらずといふとも、信心決定ならば往生にをひてうたがひあるべからずそろ。すでに光明大師は「衆生稱念必得往生」(散善義)と釋し、法然上人は『選擇集』にをひて、「南無阿彌陀佛、往生之業念佛爲本」とあらはし、鸞上人は「名號を不思議と信じ、誓願を不思議と信じそろよりほかにことなる義なし」と、「御消息」(古寫消*息一意)にのこしをかれ候あひだ、ゆめゆめ相傳なきともがらのまふすことを、本になさるべからずそろなり。 (二) 尋云、當流の義、餘流にすこしも似そろはゞ、たすかるまじといふこといかん。答。このこと、一向學文をせざるものゝまふすことにてそろ。聖道門にさへ似たⅥ-1198るところあり。いはんや、淨土一門のなかにをひて、すこしも當流は餘流ににべからずといふこと、無下にあさましき義にてそろなり。にたるところもあり、またにざるところもそろなり。 (三) 尋云、極樂をねがふを自力といふこと如何。答。いはれざる義にてそろ。流祖上人の『和讚』(淨土*和讚)にも、「安樂國をねがふひと 正定聚にこそ住しけれ 邪定・不定聚くにゝなし 本誓悲願のゆへなれば」といへり。また「彌陀初會の聖衆は 算數のをよぶことぞなき 淨土をねがはん人はみな 廣大會を歸命せよ」(淨土*和讚)といへり。そのうへ『愚禿抄』(卷下意)に、「厭離眞實・欣求眞實」と二種の眞實をあかして、欣求眞實をば流義の安心と釋したまひそろ。ことに『唯信抄文意』に、「願生彼國といふは、かのくにゝむまれむとねがへとなり」とをほせられそろ。加樣の義をしらざるものゝまふすことにてそろ。 (四) 尋云、至心信樂の信、衆生にすこしもあるまじといふこといかん。答。すでに願文に機を「十方衆生」(大經*卷上)とあらわして、「至心信樂、欲生我國、乃至十念」(大經*卷上)Ⅵ-1199と、安心・起行のすがたをちかひたまひ候機に候はでは、いかゞあるべく候や。たゞし衆生はこのちかひをたのみ候へども、みなもと法藏因位のとき、われら衆生に信行ともにほどこしあたへたまひ候あひだ、他力の信・他力の行とこゝろへ候なり。かるがゆへに『經』(大經*卷上)に「令諸衆生功德成就」とみへて候。これ、たのむこゝろは機に候へども、功を本にゆづり候へば、他力の信にて候なり。このこゝろを『和讚』(高僧*和讚)に、「无㝵光の利益より 威德廣大の信をえて かならず煩惱のこほりとけ すなわち菩提のみづとなる」とあらはし、また善導和尙は、「自信敎人信、難中轉更難、大悲傳普化、眞成報佛恩」(禮讚)と釋したまひ候。當流の門人、「傳」の字にこゝろをとめべく候。まことに本寺知識の厚恩にあらずは、いかでか生死の苦海をこへて涅槃無爲の淨刹にいたらむや。報じても報じがたく謝しても謝しがたきは、佛恩・師恩にて候。 (五) 尋ていはく、雜行、地獄にをつといふこといかん。答。雜行は眞實報土にはむまれずそろ、地獄にはをちずそろ。雜行、地獄にをつといふことは、謗法罪にてそろなり。雜行も至心發願すれば、往生淨土の方便の善となりそろ。和讚をみらるⅥ-1200べくそろ。 (六) 尋云、「卽便往生」(觀經)、平生業成の證になるべからずといふこといかん。答。「卽便往生」の文、平生業成の證にてそろなり。總じて三經の說相にをひて、流祖上人、顯彰隱密の義をたてゝ、顯のときは各別とこゝろえ、彰のときは三經一致とこゝろえそろなり。『大經』(卷下)・『彌陀經』には、「卽得往生」ととき、『觀經』には「卽便往生」とみへてそろ。是れ平生業成の證にてそろなり。たゞし卽得往生の義を『大經』には平生に約し、『彌陀經』には臨終に約すとみへてそろ。これは當流にをひて往生決定することは、臨終にてもそろへ、平生にてもそろへ、念佛の信心さだまるときを往生とこゝろえそろなり。兩經の深意このこゝろなり。たゞしまた上人、「卽便往生」を『觀經』・『雙卷經』に配當なされそろときは、「卽往生をば大經往生、便往生をば觀經往生のこゝろなり」(化身土卷意*愚禿鈔卷下意)と釋したまふなり。これは顯のかたの釋にてそろなり。 (七) 尋云、念佛にて亡者をとぶらうを自力といふこといかん。答。自力にてはなくそⅥ-1201ろ。『經』(大經*卷上)に「若在三塗勤苦之處、見此光明、皆得休息」といへり。すでに『敎行證』(化身*土卷)引『安樂集』云、「採集眞言助修往益。何者欲使前生者導後、後生者訪前、連續無窮、願不休止。爲盡无邊生死海故。」W已上Rそのうえ『和讚』(正像末*和讚)にも、「度衆生心といふことは 彌陀智願の廻向なり 廻向の信樂うるひとは 大般涅槃をさとるなり」とみへてそろ。まことに他力の信心決得の機は、衆生成佛せよとをもひそろなり。このこゝろのをこるも佛智の廻向心にてそろなり。生きたるによらず、死したるによらず、このちかひによてみな佛になれかしとをもひそろこと、神妙にてそろ。 (八) 尋云、一流に法名いるべからずといふこといかん。答。聖人の御在世よりも依用することにてそろ。たゞし流義のこゝろ、他力の信心をばすゝめずして、たゞ法名をだにもたもちそろはゞ、往生決定とこゝろへそろはむは、しかるべからずそろ。たとひ法名をたもたずとも、信心治定そろはゞ、往生にをひてうたがひあるまじくそろ。また信心なくそろとも、法名をたもちそろはむひとは、結縁となるべく候。これまことに大切のことにてそろ。 しからば、信心決定のうへには、Ⅵ-1202法名なくともくるしかるまじくそろはゞ、當機のまへには依用すべからずそろや。答。このこといはれざる義にて候。信心のまゑにてもなほなほ法名よきことにてそろ。そのいはれは、法名とまふすは、かりそめのやうなることにてそろへども、往生の授記にてそろあひだ、信心決定のまへにはことに信用肝要にて候。 (九) 尋云、親鸞上人の御流に三尊依用すべからずといふこといかん。答。上人の御代をしらざるものゝまふすことにてそろ。三尊・一尊は廣略の義にてそろなり。まことに流祖上人佛法興隆のはじめは、ひたちのくにかさま、いなだの寺にては、皇太子を本尊として佛法を興行したまふ。しもつけのくに大内の庄、高田柳嶋にしては、一光三尊をもて譜法傳受の寺の本尊としたまふ。加樣の義をしらざるひとの、近代この義をまふしいだすことにてそろなり。善導大師『禮讚』に「光舒救毗舍」の御釋のこゝろきもに銘じ、釋尊「經道滅盡、我以慈悲哀愍、特留此經」(大經*卷下)の誠說仰て信ずべし。一尺手半の尊體、たなごゝろをさすところなり。流祖佛法弘通の寺の本尊に太子をあがめたまふことは、本下迹高のこゝろなり。符法傳受の寺に三尊をあがめたまふことは、本高迹下のこゝろなり。能所ことなりといへⅥ-1203ども、利益これ一致なり。あほいで信ずべし。 (一〇) 尋云、釋迦を雜行ほとけと號して、すこしも崇敬せば地獄にをつべしといふこといかん。答。別信のときは雜行にてそろ、敎授總信のかたにては雜行にならずそろ。まことに釋尊出世そろて淨土の敎門をときたまはずは、われら衆生、いかでか生死の苦海をばいづべくそろや。こゝをもちて、『和讚』(高僧*和讚)にも「娑婆永劫の苦をすてゝ 淨土無爲を期すること 本師釋迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし」と釋し、善導和尙は、「釋迦佛の開悟によらずんば、彌陀の名願いづれのときにかきかん」(法事讚*卷下)といへり。まことに先德の御内證をしらざるものゝまふしごとにてそろ。 (一一) 尋云、一代總信、御流にあるべからずといふこといかん。答。このこと當流をしらざるものゝまふしごとにてそろ。そのいはれは、善導は「歸命盡十方、法性眞如海、報化等諸佛」と「玄義」(玄義分)に釋し、法然上人は總じて「三寶をうやまへ」と『選擇集』にのべたまひそろ。そのうへ『報恩講式』には、「敬白大恩敎主釋迦如來、Ⅵ-1204極樂能化彌陀善逝、稱讚淨土三部妙典、八萬十二顯密聖敎、觀音勢至九品聖衆、念佛傳來諸大師等、總佛眼所照微塵刹土現不現前一切三寶言」とみへてそろ。 (一二) 尋云、血脈いるまじきといふこといかん。答。佛法にをひては譜法血脈とまふしそろて、自他宗ともに大切のことにてそろなり。しかるに當世、をやの子を佛法の相承とこゝろえそろこと、いわれざる義にてそろ。佛法傳受そろへば、他人も佛法相承血脈にてそろなり。たとひ師の子にてそろとも、本師より佛法傳受せずは、血脈の義にてあるべからずそろなり。これまた諸宗共許の義にて候。釋迦如來の御子善星太子は、惡子たるによて墮獄したまひそろなり。をなじ御子にてそろへども、羅睺羅は佛法傳受あるによて、四果の聖者となりたまひそろ。よくよくこゝろへらるべく候。當流上人の御子にも奧郡の慈心房といふひとは、一生御堪當候て佛法傳受なく候。すでに高田開山眞佛・顯智は他人にてをわしまし候へども、一流傳受の嫡家にて候。よくよくこゝろへらるべく候。 (一三) 尋云、一流に盆・彼岸いるべからずといふこといかん。答。これは『改邪抄』といⅥ-1205ふふみをみまがひそろてまふすことにて候。そのふみには、一切念佛の行者の信心を治定すること、盆・彼岸の時節にかぎるやうにその沙汰候、いわれざる義なりとこそみへて候へ。當流に盆・彼岸なしといふ義にてはなく候。をほよそ盆・彼岸といふことは、これ釋迦一代の化義にて候。そのながれをくまむやから、なんぞみなもとをまなばざらんや。まことに無學のものゝまふすことにて候。 (一四) 尋云、善導・法然いるべからずといふこといかん。答。これあさましき義にて候。なかなか返答にをよばずそろ。さやうにまふすものは、「正信偈和讚」をばいかやうにこゝろへ候や。 (一五) 尋云、葬送の義式いるべからずといふこといかむ。答。他宗のやうに、四門・あらがき・はたなんどのやうなることは無益にて候。たゞ天蓋まではよく候。また、いろまく・むまなんどのやうなることは、施主のこゝろにまかせらるべく侯。 (一六) 尋云、臨終のとき、念佛をばすゝめずして御恩わするなといふこといかん。答。Ⅵ-1206師恩・佛恩をもこゝろにかけ、念佛をもすゝめ候がよきことにて候。偏局するがわろく候。 此條々義、雖不及返答、愚鈍之族思煩候間、就其尋、如形所注也。 眞慧法印(花押) 明應三年W癸寅R二月廿八日